「地政学的視差と平和の回復」

11.03.2025

この論文は、人文科学、特に政治学や国際関係の分野における最終的な規範を示すものではありません。それよりも、国際関係のシステムが抱える矛盾や内部対立、不完全さを長年にわたって観察し、分析した結果をもとに構築された、一種の批判的な理論といえます。この理論、すなわち推論的な判断は、現在試行されており、本稿を読まれる皆さまがその妥当性を評価し、ご意見や建設的な提案を加えることで、さらに発展する可能性があります。その議論を重ねる中で、新たな視点が生まれ、より詳細に検討すべき領域が見えてくるかもしれません。そして、ここで提案する理論モデルが、より公正な多極的世界秩序を築くための具体的な指針となることを目指しています。

現代の国際関係における根本的な問題は、西洋の特定のモデルが世界に押し付けられていることではないでしょうか。このモデルは「ルールに基づく秩序」と呼ばれていますが、批判的な立場からすれば、それは西側諸国が自らの利益のために策定したルールにすぎないともいえます。この秩序は1944年に確立されたブレトンウッズ体制に基づいているとされていますが、実際にはその起源はさらに遡り、啓蒙思想に根ざしているのです。

しかしこのような歴史的背景があるにもかかわらず、西側諸国はグローバル・サウスやグローバル・イーストの戦略的思考を十分に理解しているとはいえません。国際関係の理論には、自由主義や現実主義、構成主義、マルクス主義、さらにはポストモダンの理論が含まれますが、こうした枠組みの多くは西洋文明の産物です。他文明の思想を取り入れることがあったとしても、それらは西洋的な視点から解釈され、しばしば単純化されてしまうのが現実です。

さらに近年の国際政治では、宗教の要素が重要な役割を果たすようになっています。これは、宗教と政治の分離を原則とするウェストファリア体制が限界を迎えていることを示しているといえるでしょう。西洋文明がグローバルな価値観として掲げたこの原則は、現在、大きく揺らいでいます。特に、北アフリカから南アジアにかけての地域では、政治的イスラムの台頭が顕著です。「イスラム的な世界観は、可視的な世界と不可視的な世界を統合する形而上学的な観想であり、世俗政治の枠組みで捉えられる価値観とは根本的に異なる」とも指摘されています。このように、本来、宗教と政治は切り離されるものではなく、一つの連続体を成しているはずです。しかし、現実にはそれが実現されず、今の状況では世俗政治と宗教の間に新たな関係が生まれつつあり、それが国際関係において大きな影響を及ぼしています。この点について、ジャン=クロード・ミルナーは「反乱と思想には明確な関連があり、思想には物質的な影響を及ぼすものがある」と述べています。

政治的イスラムの話を取り上げたのは、近年の国際紛争、特にイラク、アフガニスタン、シリアで起きた出来事に関連するからです。しかし、これはイスラムに限った話ではありません。他の宗教的伝統や文化についても、同様の視点で考えることができます。そして、異なる文化、あるいは部分的に類似した文化を理解しようとする際には、必然的に「自文化中心主義(エスノセントリズム)」が生じます。その結果、観察者の立場によって、対象となる文化の見え方が変わってしまうのです。

こうした国際的な課題をさらに詳しく考察する前に、そもそも人間社会や政治的な組織を動かす根本的な要因とは何かを考える必要があります。この問いに対する答えはさまざまですが、多くの人が同意するのは、「恐怖」が人々の選択や行動に影響を与える主要な要因の一つである、ということではないでしょうか。

恐怖は、文化やアイデンティティ、象徴政治、合理性、感情と密接に結びついており、人間の行動を大きく左右します。これまでの歴史の中で、多くの哲学者が政治を論じる際に、恐怖についても言及してきました。そして、20世紀においては、アメリカやソ連をはじめとする多くの国々が、恐怖を基盤とした政策を展開していました。ホッブズの説によれば、人間は自然状態において「暴力的な死」への恐怖に支配され、それを回避するために強力な国家(リヴァイアサン)を必要とするのだといいます。しかし、その結果、人々は「万人の万人に対する戦争(bellum omnium contra omnes)」という状態から逃れる代わりに、今度は国家の権力そのものを恐れるようになります。こうして、突発的な暴力への恐怖は、国家権力への恐怖によって置き換えられるのです。要するに、人間は「恐怖と不確実性」を「恐怖と安心」に変換しているともいえます。

啓蒙主義の楽観的な思想、カントの「恒久平和」の理念、フクヤマの「歴史の終焉」論の挫折、さらには反グローバリゼーション運動が掲げた理想を考慮しても、恐怖が世界政治の原動力であり続けていることは明白です。それどころか、テクノロジーの発展は、恐怖を抑えるどころかむしろ増幅させる要因となっています。20世紀には、失業や環境災害、戦争の脅威といった恐怖がありましたが、現代ではさらに、テロリズムや企業支配、人工知能の反乱、サイバー攻撃、生物兵器の拡散、人工的な疫病(たとえば2020年の新型コロナウイルス)、ソーシャルメディアを利用した情報操作、気候変動、水や食料の不足といった恐怖が加わっています。そして、これらの中には、単なる妄想ではなく、現実に根拠を持つものも少なくありません。

こうした問題への対応は、政治的立場や地政学的な背景、文明的なアイデンティティによって大きく異なります。かつては、世界を一つの共同体ととらえ、協力しながら課題に対処するという考え方が支持されましたが、現在ではそれが理想論に過ぎないと考えられるようになっています。今日の国際社会においては、西側諸国が「ルールに基づく秩序」の維持を目指しているのに対し、グローバル・サウスやグローバル・イーストは、相互尊重や主権、多極性を原則とした新たな国際秩序を模索しています。しかし、問題の本質は、この二極対立を超えた、より深く根本的なものなのです。

たとえば、「トゥキディデスの罠」という概念があります。これは、米中関係を説明する際に用いられる理論ですが、その原型は、古代ギリシャのアテネとスパルタの対立にあります。グラハム・アリソンは、この理論を現代に当てはめ、中国の台頭がアメリカの覇権と衝突し、将来的に戦争を引き起こす可能性があると指摘しています。

しかし、恐怖を政治生活の原動力の一つとして最初に言及した著者の一人とされるトゥキディデスは、共通の価値観や伝統を持つギリシャの都市国家間で起こったペロポネソス戦争の原因を記述しています。哲学的・形而上学的な考え方や宗教観を共有していた都市国家同士の戦争だったという点が重要です。一方で、アメリカと中国は、戦争や政治的意思決定のあり方を含め、まったく異なる民族と伝統を持つ国です。

例えば、西洋の政治的言説において極めて重要な概念とされる「人権」について考えてみましょう。数年前、モスクワで開催された会議で、ある中国人教授が、中国がこの問題について異なる立場を取る理由を非常に簡潔に説明していました。彼によると、「人権という概念は、神がすべての人を平等に創造した」という啓蒙主義の理念に基づいて生まれたものです。しかし、中国にはそのような「神」の概念が存在しないため、中国の伝統的な価値観においては、人々が生まれながらにして平等であるという考え方は根付いていません。したがって、西洋的な人権思想を受け入れることはないのです。同時に、中国は歴史上、一度も自らの人種的優位性を主張したことがありません。むしろ、西洋文明によって厳しい弾圧や屈辱を受けた歴史があり、その記憶は現在も中国の国際的な態度に影響を与えています。こうした違いは、人権問題にとどまらず、深い歴史的背景を持つ価値観の違いに由来するものです。

このように、西洋はしばしば自らの価値観や解決策を他の地域や国家に押し付けようとします。パレスチナ問題の交渉プロセスが、長年にわたりアメリカと国連の監督のもとで進められながらも失敗に終わったのは、その一例でしょう。同様に、カシミール問題は何十年にもわたり未解決のままであり、アフガニスタンではアメリカ軍の撤退が避けられず、シリアでは今後さらなる犠牲が生まれる可能性が高い。そして、ウクライナ危機の激化も、西側諸国の過信と傲慢さによって引き起こされた結果といえます。

さらに、西側諸国の政治においては、恐怖だけでなく「恨み」も重要な役割を果たしてきました。例えば、ヨーロッパ列強の間では、アジア・アフリカ・新大陸の植民地獲得競争を巡る対立が長く続きました。ナポレオン戦争や、ヴェルサイユ条約による屈辱を晴らそうとしたヒトラーの台頭も、こうした恨みの感情と深く結びついています。アメリカにおいても、この感情は歴史の初期から存在していました。イギリス王室からの独立宣言につながったボストン茶会事件から、ソビエト革命への嫉妬まで、その根底には「自分たちの地位が脅かされるのではないか」という意識があったのです。アメリカの歴史家ゴードン・S・ウッドは、「冷戦は実際には1917年に始まった。ソ連は、アメリカが歴史の最前線に立つ地位を奪おうとした。そして今や、未来への道を示すのはアメリカではなく、ロシアであると主張した」と述べています5。

こうした感情は現在のアメリカの外交政策にも、色濃く反映されています。例えば、ワシントンのキューバに対する敵意は非常に明確です。また、ドナルド・トランプがグリーンランド、カナダ、パナマ運河、メキシコ湾について語る際の発言には、アメリカの「定められた運命の教義」や「世界的優位」という思想が表れています。

フランスの哲学者ルネ・ジラールは、「恨みは遅れた復讐に直結しているが、その根本には誤った認識がある」と述べています6。つまり異なる文化が出会うとき、特にそれぞれが「自らの歴史的独自性」を強く意識する場合、必然的に恨みの感情が生じるのです。

このように恨みは恐怖と表裏一体の関係にあります。そして、それは国際関係の理論や枠組みにも組み込まれています。自由主義や新自由主義においては、戦争や無秩序への恐怖が根底にあります。現実主義では、パワーバランスの変化、つまり別の勢力が台頭し、それに従わなければならなくなることへの恐怖が見られます。マルクス主義においても恐怖の要素は存在し、それは現在ではプロレタリアートの台頭を恐れるブルジョアジーの心理として表れています。この概念はアダム・スミスによって説明されましたが、カール・マルクスはそれを社会の構造的な命題として位置づけました。

こうした恐怖に対する対応として、西欧のブルジョア資本主義の理論家たちは「中産階級」の概念を発展させました。この階級は、生産手段を持たず、資本家に依存しているものの、生活水準が比較的高いため、反乱や革命を起こす動機を持ちません。この理論はやがて「経済発展論」や「依存理論」と結びつき、アフリカ、アジア、ラテンアメリカの国々に適用されました。同時に、アメリカは「第一世界、第二世界、第三世界」という概念を打ち出し、世界を「工業先進国」「部分的先進国」「発展途上国」と分類しました。しかし、これは実際には、地政学的規模での公然たる差別にほかならないのです。

さらに問題なのは、資本主義や新自由主義を批判するグローバル・イーストやグローバル・サウスの知識人たちでさえ、こうした西洋の分類を無批判に使用していることです。本来であれば、彼らは独自の理論モデルを開発し、それを実践するべきです。しかし、現実には西洋の枠組みを踏襲する形で議論が進められています。これは、西洋の集合体としての「自称・第一世界」による知的・科学的植民地化の一例であるといえるでしょう。

ここで再び、西洋の政治的思考に根ざし、その影響が世界全体に及んでいる「非認識」「非理解」「非受容」の問題に立ち戻る必要があります。西洋は、他者を正しく理解しようとするのではなく、自らの基準に合わないものを無視し、あるいは矯正しようとします。この態度こそが、現代の国際関係における多くの対立の根本にあるのです。

西洋の立場は、制度やいわゆる「ルールに基づく秩序」を通じて普遍性を主張しています。この考え方を、すでに述べた古代の概念と結びつけながら説明するために、私はギリシャ語の「視差(παράλλαξις - parallax)」という言葉を用いることを提案します。この言葉は、もともと天文学の用語であり、簡単に言えば、観測者の位置によって、遠くの背景に対する物体の見かけ上の位置が変化する現象を指します。つまり、同じ物体でも、見る位置が異なれば、異なる姿として認識されるということです。

この視差の概念は、政治的フレーム理論にも応用できます。政治においても、同じ対象や現象が、どの視点に焦点を当てるか、どのデータを基準とするか、そしてどのような目的を持つかによって、異なる解釈が与えられます。つまり、同じ事象であっても、異なる角度から見ればまったく別のものとして提示されるのです。

この原理は、メディア業界においても同様に活用されます。適切な演出や情報の取捨選択によって、世論の誘導が行われることは珍しくありません。人々の認識を操作するために、視差の効果を意図的に利用することも可能なのです。こうした情報の扱い方は、単なる視点の違いという域を超え、時として意図的な偏向を生み出すことにもつながります。

そして、国際関係におけるこの現象を「地政学的視差」と呼ぶことが提案されています。現代は、一極的な世界から多極的な世界へと移行する時代であり、この変化は語源的にも正当性を持ちます。ギリシャ語の「παράλλαξις(parallax)」は、「変化、交替」を意味する「παραλλαγή(parallagí)」に由来しており、時代の転換点においてこの概念が持つ意義は一層深まります。

地政学的視差とは、国際関係において他のアクターを観察する際に、自国の戦略文化を通したプリズムを用い、経済、政治、人口動態、軍事力といった指標と照らし合わせながら評価することを指します。グレアム・アリソンは、まさにこの視点から、国際関係における勢力均衡理論とリアリズムの理論に基づき、中国の台頭を分析しました。その結果、彼が抱く恐怖は、同様に隣国の力の増大に懸念を抱く国々にも広まり、逆に衰退を恐れる勢力にも波及する傾向があります。しかし、これは「トゥキディデスの罠」ではなく、むしろアリソンや同様の学者が見落としている「地政学的視差」による光学的な錯覚ともいえるのです。

もし、国際情勢を客観的かつ責任を持って分析し、他国の動機や行動を適切に理解しようとするならば、地政学的視差の影響を考慮に入れる必要があります。そうすることで、自国と他国の立場や潜在能力をより正確に評価し、必要な調整を加えることが可能になります。

さらに、「視差」という言葉の語源をたどると、もう一つ重要な概念が浮かび上がります。それが「時間的文脈」、すなわち「時政学(chronopolitics)」です。どの国家の政策も常に動き続けており、そのため他国の行動を正しく認識することが極めて重要になります。天文学において、観測者の位置によって物体の見え方が変化するのと同様に、国家や政治団体が持つ異なる時間軸のもとでは、評価基準や尺度も絶えず調整されるべきです。既存の分析モデルや方法論に基づくデータベースはすぐに陳腐化し、国際関係における多様なアクターの実際の動きではなく、予測に依存せざるを得なくなるのが現状です。また、国際条約の存在や国連の枠組みが、必ずしも安定を保証しないことは、パレスチナ問題の危機によって明白に示されました。

時間に関連するもう一つの重要な側面は、「時間そのものの認識」です。アリストテレスは、「すべてのものには目標があり、それに向かって進むテレオロジーが存在する」と述べています。では、私たちはその目標や道筋を正しく認識しているのでしょうか?それを判断する基準は何でしょうか?過去、現在、未来の位置づけをどのように考えるべきなのでしょうか?そして、それらすべてを包括的に捉える方法とは?

時に未来に対する過剰な楽観論が見られることがあります。一方で「黄金時代」と呼ばれる過去への回帰を求める保守的な思考も根強く存在します。しかし、真に適切な理解を得るには、過去、現在、未来のすべてを統合した包括的なアプローチが必要になります。つまり政治戦略は短期、中期、長期の計画を持つことができるものの、その根底には「永遠との関係における自らの位置づけ」を意識しなければなりません。それは単なる抽象的な概念ではなく、将来の世代への責任と配慮を前提とした戦略的思考の一環であるべきなのです。

地政学的視差の効果を理解した上で、次に考えるべきは国際関係における恐怖や憤りをどのように克服するかという点です。これらの感情に依存する平和は、常に脆く短命であるため、持続可能な安定を築くためには不可欠な課題となります。

世界観の統一と政治的共感を実現するためには、私たちが互いをどのように見ているのか、他者の行動をどのように評価しているのか、そしてそれは自分自身とどれほど似ているのかを考える必要があります。アメリカの人類学者ウィリアム・サムナーは「エスノセントリズム(民族中心主義)」という概念を提唱し、すべての社会が「われわれグループ」と「かれらグループ」に分かれていると指摘しました。この考えがアメリカで生まれたのは偶然ではなく、ホセ・マルティもアメリカ滞在中の観察を通じて、同様の結論に至っています。

これとは正反対の視点を持っていたのが、ロシアの民族学者であり探検家であったニコライ・ミクルーホ=マクレーです。彼はヨーロッパの学者たちとの論争の中で、「優れた民族や劣った民族というものは存在しない」と主張しました。彼はニューギニアを探検し、研究対象の社会の中に実際に入り込む「参与観察(participant observation)」の手法を導入しました。研究者がその社会の一部となることで、より深い理解が可能になると考えたのです。
しかし、同時に忘れてはならないのは、「暗闇の法則」とも呼ばれる原則です。これは「研究対象を100%理解することは不可能である」というもので、観察者の立場や限界が、必然的に理解に影響を及ぼすことを示唆しています。

この問題は民族の多様性だけでなく、政治体制の多様性にも関わるため、さらに複雑さを増します。特に現代においては、一部の政治体制が新自由主義的ヘゲモニーの代理人として機能し、グローバルな支配を目指している点に注意を払う必要があります。この支配は主に二つの方法で実現されようとしています。一つはアメリカのイラク侵攻のように、軍事介入を伴う抑圧と統制です。もう一つはアントニオ・グラムシが論じたように、合意を通じて実現される支配です。この合意は、文化的、アイデンティティ的、イデオロギー的な手段を通じて形成され、最終的には資本の分配とブレトンウッズ体制の超国家的機関への依存を確立するものとなっています。

このように、一方にはアメリカとその同盟国による一極覇権があり、他方には主権的発展を求める国家群による多極的世界が存在します。この二極構造を考慮すると、新自由主義秩序が「抑圧-合意」の関係に基づいているのに対し、多極的な陣営では「合意-不同意」の関係が機能していることが分かります。一見すると矛盾しているようにも思えますが、ヘーゲルの弁証法に従えば、私たちは現在、「対立の統一と闘争」の最終段階にあり、こうした相反する要素が多様な領域と地域で最も顕在化する時期にあると考えられます。そのため、このような逆説的な関係は、むしろ必然的なものといえます。

一般的に新自由主義の一極支配が批判される理由は比較的明確ですが、多極化モデルにおける「合意」と「不同意」について、より詳しく検討する必要があります。ここで言う「合意」は、グラムシのいう「歴史的盟約」や新自由主義の手法とは異なり、各国が自国の主権を守るとともに、他国がその文化的伝統に基づいて独自の発展の道を選び、独自の政治体制を築く権利を尊重することを意味します。

一方で「不同意」はこの合意の裏返しでもあります。それは新自由主義モデルを普遍的な基準として認めないという立場であり、必ずしも価値観を完全に共有する必要はないが、互いの利益や価値観を尊重することに同意するという姿勢を指します。例えば東方正教を信仰するロシア人である私は、キューバやラテンアメリカ諸国のカトリック信者が従うバチカンの教義には従うことはできません。しかし、それでも政治、文化、科学技術の分野で共通の利益のもとに協力することは可能です。

またアフリカにおける「パラワー」や、アフガニスタンやパキスタンのパシュトゥーン人による「ジルガ」といった伝統的な意思決定の方法についても、私たちはそれを自国に適用することには不同意であるかもしれません。しかし、それらが歴史的環境の中で存続する権利を持っていることには同意し、その変革や適応は、社会の必要性や時代の要請に従って有機的に進むべきであると認識しています。

結局のところ多極的世界秩序の鍵となるのは、異なる価値観や政治体制を持つ国家同士が、互いの違いを認めながらも、共存と協力のための枠組みを築くことにあります。そのためには、単なる「同意」ではなく、「不同意」を含めた柔軟な関係の構築が不可欠なのです。

多極的な意見の相違は、一種の積極的な自由といえます。

それは創造的な表現の可能性を広げる一方で、行動の枠組みを規定し、大きな責任を伴います。そして、この責任は確かな知識によって支えられる必要があります。

つまり、現在の誤解や対立を解決するためには、教育制度の抜本的な変革と、新しい国際法モデルの採用が求められます。これに加えて、BRICSのような非西洋的な国際組織や団体が積極的な役割を果たすことも不可欠です。これらの組織が、既存の国際秩序の枠を超えた新たな対話と協力の場を提供することで、より公正で多様な国際関係が築かれる可能性があるのです。

現実的な解決策として、ロシアで実施されている具体的な事例を紹介したいと思います。現在人文科学分野の再編に取り組んでいる高等政治学院は、ロシア国立人道大学を基盤として運営されています。この教育・研究センターは、ロシア連邦の科学・高等教育省の主導によって設立され、現在、連邦レベルでの運営が2年目を迎えています。

高等政治学院の活動は、ロシアの伝統的な精神的・道徳的価値を維持・強化するための国家政策の原則を、高等教育および学術研究の分野で包括的に実施することを目的としています。さらに、ロシアの文明的アイデンティティを概念的に正当化し、それを教育システムに統合することもその重要な役割の一つです。このような取り組みによって、ロシアの学術環境において独自の思想的枠組みを確立し、国際的な学問的議論においても独自の立場を強化することが期待されています。

このセンターの主な活動分野は以下の通り:

*ロシア文明のアイデンティティと伝統的な精神的・道徳的価値観に基づき、人文・社会科学分野における国内教育の新たなアプローチ(新しい社会人道的パラダイム)を開発し、実践します。

*高等教育機関の教育活動や青少年政策を担当する職員を対象に、専門的な再教育を実施します。つまり、得られた知見を全国の教育者へと共有し、大学やアカデミーの学長、副学長レベルの代表者が再教育や高度な研修を受ける仕組みを構築します。

*ロシアの伝統的な精神的・道徳的・文化的歴史的価値観に基づき、調和のとれた愛国的で社会的責任を持つ人格を形成するための活動を、科学的かつ方法論的に支援します。

同時に、新たな教育・研究プログラムや方法論を導入する際には、これまで西洋中心の視点が支配的だったために生じていた空白を埋めることが求められます。つまり、新自由主義的パラダイムの見直しや否定によって生じた理論的な空白を、より効率的かつ包括的に補完するため、アフリカ、アジア、ラテンアメリカ諸国の哲学的思想や独自の経験を研究するのです。そのため、焦点はロシアの伝統的な価値観のみに留まらず、より広範な世界の理解へと向けられています。この取り組みによって、地政学的視差がもたらす歪みを克服する一助となると確信しています。

高等政治学院の経験は、他の国々でも有益であり、国際レベルでの応用や拡張が可能です。

もちろん、より包括的な視点を得るためには、他のBRICS諸国やそのパートナー国における類似の取り組みを分析することが不可欠です。そして、それらの成功事例を統合し、世界規模で適用可能な最良の実践方法を見出すことが重要です。人道的・知的な協力は、単なる形式的な合意や意見交換を超え、より深い相互理解に基づくものでなければなりません。

キューバ、ベネズエラ、ロシア、イラン、朝鮮民主主義人民共和国、そして部分的には中国といった、多極的な秩序を支持する国々に対する西側の制裁措置は、一極覇権が単に経済的抑圧を目的とするだけでなく、代替的な意見や理論を排除し、人道的プロセスを西側の枠組みの中に封じ込め、資本主義・新自由主義システムによって制御しようとしていることを示しています。

こうした状況だからこそ、私たちは協力を強化し、共に取り組む必要があります。そして、ハバナでのこのプラットフォームは、世界各地に存在する同様の場と同じく、この取り組みを推進する上で極めて重要です。フィデル・カストロがかつて語ったように、「私たちは集まり続け、闘い続け、私たちの真実を世界に向けて発信し続ける」8。

最後に、キューバ政府および国民が、歴史的に続く独立闘争の過程、キューバ革命の勝利後、さらには最近の出来事において、米国の行動に対して懸念を抱いていることを私たちは理解しています。地政学的視差の観点から見ると、米国はキューバの上にのしかかり、国際関係における他の主体を覆い隠そうとする巨大な存在に映るかもしれません。しかし、世界の別の地域には、それと同等の規模を持つもう一つの大国があり、それはキューバの友人でありパートナーでもあります。共に手を携えれば、平和の回復に向けて大きな役割を果たすことができるのです。

フィデル・カストロが、2005年3月20日に開催された「文明間対話世界会議」の閉会式でロシアについて語った言葉を、改めて思い出したいと思います。

「私たちは皆団結し、文明の守護者としての対話を続けなければならない」9。

翻訳:林田一博

Reference:

1. Seyd Muhammad NAquib al-Attas. Prolegomena to the Metaphysics of Islam. Kuala Lumour: ISTAC, 1995.

2. Jean-Claude Milner. Constats. Paris: Verdier, 1999.

3. Muqtedar Khan and Isa Haskologlu. Fear as Driver of International Relations, E-IR, Sep 2 2020. https://www.e-ir.info/2020/09/02/fear-as-driver-of-international-relations/

4. Graham Allison. Destined for War: Can America and China Escape Thucydides’s Trap? Houghton Mifflin Harcourt, 2017.

5. Gordon S. Wood. The Idea of Anerica. Reflections on the Birth of the United States. NY: The Penguin Press, 2011. Р. 406.

6. Rene Girard. Achever Clausewitz. Entretiens avec Benoit Chantre. Carnets Nord, 2007. P. 125.

7. Leonid Savin. Ordo Pluriversalis: The End Of Pax Americana And The Rise Of Multipolarity. London: Black House Publishing, 2020.

8. Fidel ante los Problemas del Mundo Contemporaneo. Discursos de Fidel Castro Ruz: 1959-2016. Centro Fidel Castro Ruz/Manu Pineda.

La Habana: Atrapasuenos, 2023. P. 429.

9. Fidel ante los Problemas del Mundo Contemporaneo. Discursos de Fidel Castro Ruz: 1959-2016. Centro Fidel Castro Ruz/Manu Pineda. La Habana: Atrapasuenos, 2023. p. 699.