「西洋人の東征」

01.09.2025

植民地として存在する日本という国が、アメリカの軛を折ろうとする時、私は日本がロシア共和国の構成国として編入される事が最良と考えています。

もし日本がロシアに編入されたなら、当然ロシアになり、日本は国際連合の戦勝国規定から外れると考えています。所有される日本の軍隊は当然ロシア軍に編入されますが、特にロシアの海上戦力は大幅にアップし、軽空母、イージス艦など、システムの改変には非常に労力を必要としますが、ロシアは西太平洋の制海権を握る事が出来ます。

何より日本は西側として振る舞った誤謬を再定義し、東側に配置し直す事が出来ます。また、皇室とロマノフ家が縁戚関係を持つ事になれば、民族を血で繋ぐ事によって、ユーラシア主義を成就する事が出来るのです。これによって、ユーラシアという一つの文明圏を多民族の結合によって結び、西側の侵食を防ぐ事が出来るのです。現在の日本の政治は稚拙で、軍隊と外交をロシアに譲る事で日本は経済に注力する事が出来るのではないでしょうか。

もちろん日本にあるのはロシア軍ですが、人任せにする事は出来ず日本人がやらなければなりませんが、最新の軍隊の指揮権を日本人が放棄して、ロシアに預ける方が安全であると私は考えます。憲法9条によって戦争を放棄しているのならば、そもそも存在しない軍隊ですから、指揮権がなくとも問題ありません。

副次的に北方領土はロシアの領土である事を維持したまま、日本人は構成国のパスポートで北方領土に行く事が出来るはずです、目的が往来だけならばそれで充分なはずです。とにかくアメリカの影響から日本を解放する事が必要なのです。

私はユーラシア主義と第四政治理論という視点から、日本という国と文化を大陸の文明に接続する局地的文化圏として再定義し、考える時、古代日本人が建国当初から東西対立の問題を捻れた形で内包し、矛盾を抱え苦悩したと想いを巡らせます。

弥生文化の起源と考えられる黄河文明の王は、自らを「東の王」と規定していたに違いありません。これは西に存在したフェニキア文明に対しての位置づけであり、「自らは東方世界の支配者である」という自覚です。その東方意識を帯びたまま日本列島に到達した時、日本における自らの役割も「東の文明の担い手」として保持していたでしょう。

一方で、西側起源のフェニキア文明東端であるアムール系文明が北方から列島に流入すると、その位置づけは日本列島において「北方」でありつつも、同時に「東の文明」として認識されることになった。つまり、黄河系が「東」を自称していたにもかかわらず、日本列島の内部においては黄河文明が西で、アムール文明が「東の力」として現れるというねじれが生じたのです。

しかし、南方の黄河文明系には、北方勢力が単純な軍事的優位では凌駕できない要素がありました。それは冊封体制の王族の血統という、超越的な秩序を体現する血統的正統性です。この系譜の権威は、単なる実力を超えた空間的秩序を表しており、北方アムール集団は軍事力と技術力を持ちながらも、この血統的正統性を尊重せざるを得なかった。そうでなければ、大陸に存在したであろうアムール文明の本国に対する説明責任を果たせず、大陸政治秩序から孤立する危険があったのです。フロンティア勢力は常に中枢に対して正当化を必要とし、正統な血統を単純に軍事力で抹消することはユーラシア政治空間全体への挑戦となるからです。

その象徴的場面としての建国神話の中に記憶される存在が「東征」です。黄河文明系としての存在は、最初に西から攻め入ったため敗北しました。これは、自らを「東」と規定していた黄河文明系民族が、日本列島の地理的状況において「西」として作用してしまったことを意味します。そこで初めて彼らは、自らが立ち位置を取り違えていたことに気づき、方角を修正して局地的な形式で「東から軍を展開する」ことで、真の意味で列島の支配を確立するに至ったのです。

しかし、これは通常の意味での征服ではなく、交渉による政治的妥結であり、日本の根本的な二重権力構造を確立したものであったと言え、貴族階層(黄河系統)は政治的正統性と血統的権威を担い、武士階層(アムール系統)は軍事的優位と技術的卓越を保持する。この二分構造は、出雲の「国譲り」や尾張氏の服属が、軍事征服ではなく外交的妥結として描かれていることを説明しており、アムール勢力は実力的優位を維持しながらも、黄河系血統の空間的権威を認めたのです。

つまり、日本建国は単なる列島内の統一ではなく、文明的自己認識の錯誤と修正、すなわち「自らを東と信じた文明が、西として振る舞ってしまった矛盾を克服する過程」であったと読めるのです。これは日本を「ユーラシア文明の接合点」と捉える上で欠かせない鍵になると私は思います。

この錯誤の修正によって得られたものは、単なる軍事的勝利ではなく、日本列島における文化的な「定位」そのものだったと考えられます。黄河文明の勢力は、自らを「東の王」と規定しながら、西から侵攻して敗北した時点で、自らの文明的立場が地理的現実と矛盾していることを突きつけられました。「東征」とは東を征服することではなく、「東になること」ということだったのです。

この論考に関して、一つ特に興味深い事実があります。今日広く認知されている、日本の歴史時代において登場する「将軍」という称号は、本来大和朝廷における参謀長に相当する立場を示すものであり、政権を掌握するような地位ではありませんでした。そのため、将軍は別に高位の官職を兼ねていたのです。

さらに「将軍」という呼称は略称であり、本来の正式名称は「征夷大将軍」でした。(東の敵を制する将軍)

この称号は、中華思想における方位による敵の区分、そして方面軍の設置を示す呼称法に基づいており、文字通り「東夷を征する大将軍」を意味します。この呼称が江戸時代に至るまで、日本の政治体制の根幹として機能していたという事実は驚くべきことです。[1]

江戸幕府は西洋を遮断し拒絶しましたが、明治政府は一転して「脱亜入欧」を掲げました。その理由はここにあると私は考えます。すなわち、文明の深層心理において、将軍には「西洋を遮断する正当な役割」が与えられていたからです。

日本にとってペリーは「東から来た西」でした。他の西洋諸国はすべて南方の港から来航しましたが、ペリーだけは京都の朝廷の東に位置する港に現れたのです。残念ながら、ロシア帝国が開港を迫ったのは佐世保でした。

注目すべきは、今日の日本が自らを「西である」と公言している点です。これはすなわち、意図的に敗北を選んだことを示しています。私自身が日本を東に再定義するための方法として考えるのは、日本がロシアの一部となることです。ロマノフ家との婚姻はそれに類する方法ですが、古代日本とは逆位相のやり方で実行することによって、保持しているものを手放す代わりに、失ったものを取り戻すことになるという事が言えるのではないでしょうか。明治維新によって、「脱亜入欧」の下、日本は西側に加わり、開国し、日清戦争・日露戦争を起こし、さらに大東亜戦争に至って、最終的には「東から来た西」であるアメリカに敗北したのです。

これは日本人が、極東にある大陸文明の一員としての自覚の無さに、全ての原因があると言えます。
建国の初心に帰り、文明的自己認識の錯誤と修正を早急に行い、自らの文明的立場が地理的現実と矛盾していることを認めて東を征服することではなく、「東になること」に目覚めなければならないのです。